藤島の悠想

読んだ本とか日記とか考えたこととか

彼氏の好きなところ

いきなり電話しても「どうしたの?」って言わない

私のことがとっても好き

感情が顔に出てしまってる

女の人が気持ちよさそうなAVが好き

じゅうぶんな言葉を持っているけど論破してこない

知的好奇心が強い

私の好きなものを知ろうとしてくれる

村上春樹の小説の主人公のような気の抜けた服装が似合う

話を最後まで聞いてくれる

 

つづく

 

 

 

おさんぽ中に友達になったじいちゃんの話

『断片的なものの社会学』を読んで、

心動かされる出来事は誰かの日常にどこまでも転がっていることを再認識した私は

「断片的なものがたりを探しに行くべ!」

と思い立って読了直後、イヤホンも耳にささず外に出た

 

その時の私はとにかく誰かと話しとーてしゃーなかった

 

そんな日に出会ったじいちゃんはお坊さんだった

 

私は人と出会う才能みたいなものをたまにすごく発揮する

 

 

後日、仏壇の展示会に誘われた

なんかすごく美味しいたけのこご飯定食たべて、あまいワインをのんだ

その日からじいちゃんのことは先生と呼んでいる(仏壇の営業マンに先生って呼ばれてたから)

 

今日は先生がテレビをくれるというので拝見しに行った

 

 

ほんとにお寺に住んでいる・・・

 

お寺のまわりに生えている老松の手入れのバイトをしないかと言われた

給料はないとのこと

 

 

そのあと、所有しているマンションに連れて行ってくれた

住んでくれる人を探しているそうだ

行く前に奥からトントントンと野菜を刻んでいる音と、「やきそばが~」っていう先生の声が聞こえた。

 

 

若くてかわいらしい女の子(私である)が言ったら格安で貸してくれるかななんて思いつつ、家賃はしっかり8万円とりますとのこと

 

 

でも8万円でも安いほど、すてきな部屋だった

先生がオークションで落としたという臨海学校で置いてあるような木製の二段ベッドがイチオシです

 

ちょうどお昼の時間で、即席のやきそばを作ってくれた

ちゃんとキャベツと豚肉も持ってきてくれていた

来る前に聞いたのは、先生の奥さんがキャベツを刻んでくれていた音だった

 

 

先生がよくわからない女の子を連れてきて、「今からマンションのほういってくるわ。ほんでやきそば作りたいから野菜と豚肉ないか」と言ってもさっと対応する奥さんと先生を想像して「いいな、そういうの・・・」と思った

 

 

小さい鍋しかなかったから、ひとりぶんずつ作った

わたしのぶんを先につくってくれたからお言葉に甘えて食べた

 

なんだこの平和なひとときは

そしてなんだこの状況は

しかもなんだこの美味しいやきそばは

 

 

私にはおじいちゃんがいたことがなかったから、おじいちゃんってこんなんなのかなと思った

 

 

 

これからやきそばを食べるたびにきっと今日のことを思い出す

 

ゆめ

ゆめをみた

 

 

以前付き合っていた彼氏がでてきた幸せなゆめだったのに、つらい

つらいのは現実ではもうその人の隣で笑えることなんてないから

 

 

夢の内容は、私が台車みたいなかごの中に乗って、彼氏がそれを全力で押していた。

 

 

すごい速さで一回転できるほど

空中でふたりけたけた笑っていた

ジョゼと虎と魚たちみたいだった

 

 

という光景をなぜかメタな視点から、グーグルのストリートビューをみるみたいに車道からみている夢

 

 

たのしかったあ

 

 

 

いつまで昔の恋をひきずっているのと言われるのだろうけど、いつまでも引きずるよ

これは私の人生の中で絶対事項

顔も体も声も言葉も哲学もこれまで生きてきたその姿も全部尊く思えた

 

 

今もいつもどこかでその人の残像を追いかけている

 

 

 

贅沢は味方

不純な動機から保育士試験を受けた。

 

一日目の試験が始まる30分くらい前に、彼氏がスタバのドリンクチケットを送ってくれた。「贈ってくれた」だけど、それは実際にはLINEで「送られてきた」

 

正直、きのうの夜は例にも漏れず眠れなくて、眠れないと泣いてしまってもう、やけくその孤独モードに陥っていた

殺伐とした精神で(たぶん顔つきも)でエスカレーターを上がっていた。

 

そんな時にメッセージとともに送られてきたスタバというより彼の心配り(心配りというのは、気遣いと似ているが、彼の頭の一部に私が今日保育士試験を受けるのだということが意識の中にあるということ。脳内メーカーをしたらその中に私がいるということなので心配りであり頭配りである)が、また泣いてしまうくらい嬉しかった。

 

2日め、特にスタバに行きたくはないしなんならすぐにでも家に帰りたかったけど、今日の予定の中で試験を受けることとスタバに行くことは絶対事項だったので寄った。

 

甘いものを欲しているわけでなく、コーヒーも飲めないからなるべくシンプルなものにしようと思ってアーモンドミルクラテにした。

 

しかしこのドリンクチケット700円分とやらはおつりが出ないとのこと。店員さんが「一番大きいのでもいけますし、追加し放題ですよ!」と教えてくれた。

「じゃ、じゃあ一番大きいのでキャラメルシロップ追加してもいけますか」と食いしん坊みたいな発言をしたのに、それでも580円くらいだった。

これは何かしらのフラペチーノものを頼まないとドリンクチケットの活用はむずかしいのではないか

 

客観的に考えると120円ぶんの損失のアーモンドミルクラテを飲んだ。

「ぜいたくだ・・・」と思った。

 

最近思うのは、「ぜいたくだア・・・」と思うとき、選択の贅沢を感じるときだなと思う

 

700円のドリンクチケットでアーモンドミルクラテ(1番デカイのにしてしまったけど。だって店員さんが教えてくれたんだもの!)を選択できること。

 

きれいな花が咲いてるのをみつけたとき(あるいは変な形の雲を見つけた時)、立ち止まって写真を撮れること、水よりもあたたかいお茶を選べることとか。

クリーニング屋さんでロイヤル仕上げをつけられること。

 

つまり、贅沢はお金じゃないんだよという話。じゃなかった

お金がないと選択できないことも結構ある。

 

でも

”贅沢するにはきっとサイフだけじゃ足りないね”

と林檎様もうたっている

 

この歌詞はある意味では保守的につけられた歌詞だと思わない?

 

贅沢なアーモンドミルクラテ、ありがとう

 

経験至上主義とトラウマについて

J.デューイが唱えたプラグマティズム、経験至上主義

これに大きく共感する

 

しかし、例外となるものがある

トラウマだ

「ラ」にアクセントを置く方の

 

トラウマは経験を過去のものとして扱えない

自身の存在を脅かし続ける

 

いつどこでトリガーに遭遇するかびくびくしながら生きる

今日はあの日に戻らなくて済んだ

 

 

 

満たされないコップ

穴の開いたコップ

水を注ぎ続ければ満たされている

そんな瞬間がつづく

 

注ぎ続けても溜まらないコップ

やがてもうつかれてしまったと

穴のないコップに注ぎだす

 

水が注がれなくなったコップ

あっというまにからっぽのコップ

注いでくれる人はもういない